帯刀坐禅(たいとうざぜん)とは、刀を帯びたことをイメージして、魂のバランスと、平常心を得るための精神統一法です。

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なぜ、帯刀坐禅なのか

日本は1000年以上もの侍の歴史の中で社会を築いてきました。
戦士であり騎士であり役人であった侍の最後は、200年以上もの平和の時代で幕を閉じます。その時代に「武士の心得」は完成しました。

「武士道」を書いた新渡戸稲造はヨーロッパ人に、日本の教育に「宗教」が含まれないことに驚かれます。諸外国では、宗教こそが倫理を教え、社会ルールの基盤です。

しかし、日本の宗教・神道はキリスト教やイスラム教、仏教とは異なる「道」であり、「神を崇め、教えを守り、広めること」ではなく、突き詰めれば「礼」です。つまり、私たちは「礼」だけで倫理を維持できる国民なのです。

さらに「武士道」も新渡戸がまとめた1冊の本であって、武士道という確立された教えはありません。

武士道を求めるなら「己を律し、礼を重んじる」ことを中心に、理想の人間になるために、様々なところから学んで行いかねばなりません。

武士道は、武士という権力、そしてそれを象徴する刀を帯びる者を、律するために必要な倫理でした。
特に江戸時代に入ると、戦争は収まり、刀は象徴化しました。武士の社会は家柄で地位や収入は決定してしまっています。それでも忠義を維持し、規律を守り、市民から尊敬される人物であり続けなければなりません。

この、強い倫理観は、強力な武器である刀の重みとバランスを取っていたからこそ存在し得たのです。

ですから、絶対的な社会と刀を失った現代では、武士道を維持するのはとても難しいことです。

新渡戸は「武士道」の終わりにこう書いています。
「守るべき確固たる教義や公式を持たないために、武士道は朝の一陣の風であえなくも散っていく桜の花びらのように、その姿をまったく消してしまうことだろう。だがその運命はけっして絶滅したのではない。」

とすれば、私たちの魂はこの倫理観を受け入れる「器」を持ち続けているのではないでしょうか?

そのため魂は、自然とこの器を満たすことを要求します。ところが刀を持たないために、形にならず、バランスを失ってしまうのです。

あなたが魂のバランスを求めるなら、この「帯刀坐禅」を試してみて、もう一度刀を手に入れてください。

刀は象徴です。実際にはなくても、その存在をしっかり意識することで、魂のバランスを維持してくれるはずです。

ほんの数分の精神統一では、全てを得ることはできなくても、武士の一分を得ることができます。


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